先週末は横浜美術館の「李禹煥 余白の芸術」展へ。作品は真っ白なキャンバスに灰色のペンキが塗ってあるだけとか、石と鉄板の微妙な配置だけとか、いわゆる現代美術に属するもの。

李禹煥の芸術は、「作る」ことにおいて最小限でありながら、最大限の交感をもたらす余白の芸術です。

と説明されていたとおり、作品の主題とか意味とか意図が、作者によって導かれるのをできるだけ避け、作品とそれを鑑賞する側のいわば自由なinteractionを可能にしている、とでも言うのだろうか。確かにあまり作者の顔が見えてこないので、作品を鑑賞することで、いろんなことが想起される。事実、ワークシートと称して、子供向けの鑑賞マニュアル(?)が用意されており、「この絵をみて君はどんな風に思うかな?」「1.ひろい海 2.雪景色 3.白い霧 4.大きな空 5.その他(自由に書けるようになっている)」と質問され、答えを見ると、「どれも正解」。あほか。
僕が好きなのは、作者の意図や魂がこれでもかと伝わってくる美術なので(笑)、「どのように解釈しても正解」という、確かに教育上はいいのだろうけれど、まどろっこしく甘ったるい美術館の意図には正直、辟易した(とか言いながら、これを埋めるとオリジナルピンバッジがもらえたので、喜んで埋めました。残念!!)。
石っころと鉄板をみて、確かに人と芸術作品との何かしらの接触があり、相互作用が生まれるのだろう。これは彼が「もの派」と言われるグループに属しているので、こういう表現方法をとるのだと思うが、僕が思うのは、「もの派」があるなら「ひと派」があってもいいだろう・・・ということ。ものを使うより、ひとを使って芸術したほうが、よっぽど相互作用が生まれるのではないかと思うけれど、素人考えだろうか