毎日パソコンに向かって論文を書いていると、本質的なことがあやふやになってきて、いったい自分は何を書こうとしているのか、何が問題だったのか、英語は本当にこういう表現でいいのか、などなどが頭の中でグルグルと回り出し、遅々として進まなくなることがよくあります。気分転換にブログを巡回していると「遅筆のはなし」というエントリーが目にとまりました。少し長いですが、印象に残ったので引用します。

まだわたくしが30才の頃ですが、DLDCさんの家に泊まって論文を書いたことがあります。わたくしが書いたのでなく、彼が書いてるのを傍で見てるだけでしたが、何しろ驚いたのは、一行かくのに数時間かかるのです。結局二日か三日かボストン郊外の彼のお宅に泊まらせてもらって、パラグラフを3つくらいしか書けませんでした。というかそれをずっと見てるとか、彼のうなるのを聞いてました。ただ、データ自体は総ざらいをしたのですが。その総ざらいの過程でわたくしが現場人間として陪席している必要があったのです。
もちろんその仕事は論文になりませんでした。でも少数の関係研究者は誰でも知っている結果でした。AK先生も重要知見と認めてくれたのですが。これがわたくしの一つの幼児の原体験で、あれほどの議論ができ英語はnativeどころかトップクラスのインテリが目の前で正しい言葉を探して一日中うんうんうなっているのを見聞して、それ以来時間がどんなにかかってもあの単語一つに要する時間の長さの経験よりはましだな、と思う次第です。
生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ より抜粋



これまでを振り返ってみると、実験をし、論文を書くという行為に対する厳しさ・哲学というものを、最近まであまり考えずに来てしまったようにも思えます。科学者というものは実験をして、論文を書くのが仕事なのだ、ということは常に言われることですが、それを頭では理解していても、「原体験」として感じることは、なかったような気がします。最近になってようやく、「科学」に対する哲学のようなものを、あやふやながらも自ら理解し始めたような気がしますが、Y先生のような経験があれば、もうすこし早く、具体的に理解できたのではないかと悔やまれます。大学院でも、ともすれば「科学」をナメる、あるいは実験や論文を書くことに没頭できない、といった雰囲気が簡単に作り出されてしまうのが現実です。僕もそういう時期がありました。この時期は研究をひとつの成果としてまとめる時期ですので、後輩などにも読んで欲しいエントリーだと思いました。