小林秀雄は「Xへの手紙」の中で

女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。

と書いている。これをいいように解釈して、な〜んだ本なんて読まずに女遊びだけしてればいいんだ。あの小林だってそうだったんだ。と、思ってしまってはだめなのである。万巻の書を読み、行間から筆者の本音までも読み取ったとされる小林が言うから、真実なのであり、つまりこの命題は、小林並みに本を読んで、理解しているという前提、その一点が存在する時のみに成立する(かもしれない)のである。
なんで、こういうことを思い出したか・・・。サイエンスはロジックの世界だという。Aが成り立つからB。Bが成り立つからC。Cが成り立つから・・・という因果律をずっと追い続けることで、Xというコタエが得られる。生物学では、対象となるものがすこし不安定なために(それは実験するというマクロな視点からであって、ミクロな世界では厳密なのかもしれないが・・・)、Xという答えにすこし曖昧さが残るけれど、その手法はやっぱり大抵はロジックなものだ。そのXという答えを得るために、ロジカルな思考のみでしか到達できないのか?といえば、実はそうではないという。前人未踏な、創造力のかたまりのような(と、某教授の表現を借りるが)、答えを得るためには、その過程で直感(あるいは非ロジック)ともいえるものが働くことがあるそうだ。僕はまだ経験したことがない。それはまるで、数学の公理公準のようなものかもしれない。では、そういう直感を使うことを前提として、ロジックを放棄して、Xという答えに到達する術を(あらかじめ)用意することはできるのか?ということも考えられるが、その術が得られたとして、ロジカルなものと比べるためには、やはりロジックな裁定が必要だというジレンマに陥りそう。
ロジックを放棄することは簡単だけれど、かといってそれでロジックに勝てる方法を得られる保証はない。まるで、本を読まずに、女遊びをするように。だからとりあえずは、ロジックの海でもがくしかないのだろうか。なんか、よく分からん文章になってしまった。疲れているな。
しかし数学の書とかを読んでいると、この公理公準てものを導き出す仕組みはどうなっているんだろう、と思う。まさしくそれが間違っていたら、数学の大系全てが崩れるシロモノであり、しかも公理公準は互いに重複せず、矛盾のないものでなければならない、とくる。ユークリッド幾何学公準を再解釈し、新しい公理を打ち立てたヒルベルトは、本当に尊敬に値する